出エジプト記32章1−16節
モーセ四十日四十夜、山にいました(出エジプト 24:18)。その四十日が終わる頃、民は待つことにうんざりしていました。待ちくたびれた民は、モーセの兄アロンの周りに集まって言いました、「われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。あのモーセという者がどうなったのか、分からないから」(32:1)。
神が民に「偶像を造ってはならない」と命じてから六週間も経っていませんでしたが、すでに神の声を実際に聞いた効果は薄れ、彼らは神の命令に背きました。過去の霊的な経験の上に生きることはできません。過去の経験は、決して現在の従順の代用にはなりません。
新しい宗教運動
アロンがモーセの後継者になるのは自然な流れでした。彼はすでに公認された職務に携わっていました。そして、神の民がアロンに後継者になることを求めたとき、アロンにはすでに心の準備ができていました。
アロンが最初に行ったのは、新しい働きを始めるための資金集めでした。民は宝石を寄付し、アロンはこれらの贈り物から金の子牛を造りました。哀れなことに、アロンは、「人が望むものは何だ?」という問いを動力とするミニストリーの父となったのです。哀れな神父となりました。その仕事が主に「人々は何を望んでいるのか」という問いによって推進されていたからです。市場原理いよってミニストリーを進めていくとき、それは瞬く間に偶像礼拝に変わります。
もちろんアロンは、自分がしていることの正統性を主張したかったので、「明日は主への祭りである」(32:5)と言いました。しかし、アロンの用意した祭りは自己顕示の手段に過ぎませんでした。
翌日「民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた」(32:6)。つまり、酒が出てくると同時に、着ていた服はどこかへいってしまったということです。盛大な祭りでしたが、間違った神を崇拝していたのです。
現代のニュース記者がこの状況をどう報じるか、立ち止まって考えてみてください。黄金の子牛は、世界の宗教について報道するジャーナリストにとって格好の題材となったでしょう:「ここシナイ砂漠で、注目すべき新しい宗教運動が生まれました」と記者は語り始めます。
「人々は創造性と自己表現を特徴とする革新的な礼拝スタイルを採用しました。」それから派手な装いのダンサーへのインタビューが続きます。彼らは、金の子牛の祭りがとても有意義だったと語るでしょう。
祭りの解散
民は祭りに意味があると思ったかもしれませんが、神はそれを嫌悪しました。神の民は、神の第一の戒めを破ることによって堕落しました。あまりにもすぐに、そして露骨に堕落したので、神は民を一掃し、モーセと共にやり直そうと考えました:「今は、わたしに任せよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がり、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とする」(32:10)。
モーセが民のもとに戻って最初にやったことは、アロンを問いただすことでした:「この民はあなたに何をしたのですか。あなたが彼らの上にこのような大きな罪をもたらすとは」(32:21)。人々はアロンを恐ろしい拷問にかけたのでしょうか?実際は、アロンを説得して神の律法を破るようにするのに必要だったことは、民衆の世論だけでした。アロンが民衆を罪に導いたのは、人々の強い要望や市場の圧力に抵抗することができなかったからです。
アロンは責任を逃れようとしました。彼は「のみで鋳型を造り」(32:4)金を偶像に加工しました。しかし、モーセが兄のアロンに問いただすと、アロンは出来事をきれいに飾りました。「私は彼らに『だれでも金を持っている者は、それを取り外せ』と言いました。彼らはそれを私に渡したので、私がこれを火に投げ入れたとこら、この子牛が出てきたのです」(32:24)。たまたまそうなっただけです!
モーセは兄を問いただしても無駄だったので、民に決断を下すよう求めました。「だれでも主につく者は私のところに来なさい」(32:26)。全員に悔い改める機会が与えられ、圧倒的多数がその場で悔い改めました。
贖罪の意味
翌日になって、モーセは民に「あなたがたは大きな罪を犯した」と言いました(32:30)。どうしてわざわざ言う必要があったのでしょうか?民はすでに自分たちが罪を犯したことを理解し、悔い改めていました!では、なぜモーセは翌日起きて、「あなたがたは大きな罪を犯した」と言ったのでしょうか?赦されていなかったのでしょうか?
なぜモーセはそこでおしまいにしなかったのでしょうか?彼らは赦されたと宣言するのが、モーセの義務ではありませんか。民は申し訳なかったと思っていました。モーセは彼らにこの上何を望むのでしょうか?そもそも、彼らを赦すのは神の義務ではないのでしょうか?いいえ、罪が赦されるためには、まだ必要なことがあります。
物語のこの時点に至って、「贖罪 / 宥(なだ)め」という聖書用語に出会います。モーセは民に言いました、「わたしは主のところに上って行く。もしかすると、あなたがたの罪のために宥めをすることができるかもしれない」(出エジプト 32:30)。「贖罪」とは、間違ったことを正しい状態に戻すために必要とされることです。罪があるところでは必ず、贖罪の問題に直面します。物事を正しくするためには何が必要か?
謝るだけでは、十分でない
大学時代にサッカーの試合をしていたとき、相手チームがゴールに向かって突進してきました。私は最後のディフェンダーでした。必死に突っ込んで、ゴールラインからボールをクリアすることに成功しました。
あいにく、ボールは学長の書斎に向かって飛んで行き、窓を割ってしまいました。学長は、窓を割ったことについては、大変寛大でした。しかし、私が新しい窓ガラスをはめて、あたりを掃除することを要求しました。それが、その状況を正しくするために必要なことでした。
贖罪についてまず把握しなければならないことは、どうすることが必要かは、常に被害を受けた側が決定するということです。壊れた窓の横で泥だらけのユニフォームで立っていた私には、交渉の余地はありませんでした!「本当に申し訳ありません」と私は言いました。そのように謝るのは良いことです。しかしそれだけでは十分ではありません。私は損害を与えていて、修復が必要だったのです。「二度と繰り返しません」と言いたかったのですが、それもまた状況を正すことには繋がりません。
「君がすべきことは、壊れたものを片付けて、新しい窓をはめることだ」と学長は言いました。それが贖罪であり、物事を正しくするために私が払わなければならなかった代償でした。では、神に対する過ちを正すためには、何が必要なのでしょうか?
申し訳ないと思いさえすれば良いと考える人もいます。私たちが本当に悔い改めて、本気で変わろうとすれば、神との関係は正されると思うのです。しかし申し訳ないと思うだけでは、十分ではありません。二百万人近くの民(注1)が悔い改めましたが、それでも問題が残っていました。してしまったことに対して申し訳ないと思っても、私たちは有罪のままです。贖罪が必要なのです。
偉大な指導者でも贖罪はできない
贖罪を行うことはモーセに可能だったでしょうか?モーセは、過越祭での子羊の死から、人々の命を救うために神が身代わりを受け入れてくださる場合があると知っていました。モーセがその身代わりになれるとしたらどうでしょう?
モーセは民に言いました、「私は主のところに上っていく。もしかすると、あなたがたの罪のために宥めをすることができるかもしれない」(出エジプト 32:30)。ボランティアが現れました!旧約聖書の最大の霊的指導者が進み出て、神に言いました、「ああ、この民は大きな罪を犯しました…今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるならーー。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください」(32:31–32)。モーセには民のために命を捨てる覚悟ができていました。もし、民の罪を贖うために地獄に入らなければならないとしたら、それも覚悟の上でした。
しかし、神はその申し出を受け入れませんでした:「だめだ、モーセ。贖罪はあなたにできることではない。」モーセにも自らの罪がありました。残念ながら、自分に罪がある人は他の人の罪を贖う立場にありません。民の人生は続いていきますが、贖罪が行われなければ、神の臨在を失うことになります(出エジプト 33:3)。
民がこれを聞いたとき、彼らは嘆き悲しみました(出エジプト 33:4)。彼らはその瞬間、最も個人的な形で、最も根本的な問題に直面していました:「神の臨在を取り戻すためには何が必要なのだろうか?申し訳なかったと思うことが不十分で、モーセにも不可能ならば、私たちの罪を贖うためには何が必要なのだろうか?」
辛抱強く従っても、贖罪はできない。
あるいは、神の命令に従うことに真剣に取り組めば、神の臨在が戻ってくるでしょうか?出エジプト記25-30章で、神は幕屋を建てるための詳細な指示をし、出エジプト記36-39章では、民が細部までその指示に従った様子が記録されています。「イスラエルの子らは、すべて主がモーセに命じられたとおりに行い、そのようにした」(39:32)。
幕屋のカーテンに刺繍を縫う女性を想像してみてください。神の詳細な指示に従いながら、彼女は考えます、「私が従順であれば、おそらく神は私たちのところに戻ってくださるだろう」。「主を悲しませなかったらよかったのに」と思っている大工を思い描いてみてください。「私のこの手で神が命じられたことに忠実に従えば、神は再び私たちを祝福してくださるだろうか」と考えながら仕事に励みます。
神の民は細心の注意を払って従いましたが、作業の最後段階になっても、神の臨在が戻ってくる気配はありませんでした。神との正しい関係を取り戻すために何が必要なのかと彼らは考えたに違いありません。
価値がある犠牲が贖罪を成し遂げる
神の臨在が戻ってくることを願いながら七か月(注2)が経ったとき、ようやくモーセはそれがどのように達成されるかを彼らに話しました:「これは、あなたがたが行うようにと主が命じられたことである。そのようにすれば、主の栄光があなたがたに現れる」(レビ 9:6)。民は沈黙してモーセの言葉に聞き耳を立てたことでしょう。
モーセはそれからアロンに向かってこう言いました、「祭壇に近づきなさい。あなたの罪のきよめのささげ物と全焼のささげ物とを献げ、あなた自身のため、またこの民のために宥めを行いなさい」(9:7)。神の臨在と祝福は、贖罪がなされて初めて戻ってくるのです。
アロンは、神が命じたとおりに行いました。民は息を殺して、何が起きるか見守っていたに違いありません:「モーセとアロンは会見の天幕に入り、そこから出て来て民を祝福した。すると、主の栄光が民全体に現れた」(9:23)。神が帰ってきてくださいました!「民はみな、これを見て喜び叫び、ひれ伏した」(9:24)。
想像してみてください。ある夫婦がテントの中に座って、今目撃したことについて話しています。「あんなもの見たことがない」と夫は言います。「動物の血を流すことで神の臨在が戻ってくるとは、誰が想像できただろう?」
「本当に、素晴らしいことです」と、妻は言います。「しかし、どうして犠牲によって神が戻ってきてくださったのか、理解できません。申し訳ないと思っても、神の命令に従っていても、そしてモーセが私たちのために命を捨てることを申し出ても、この何か月もの間何も起きなかったのですから。いけにえの血を流すことには、なにか非常に強い力があるのでしょうね。」
聖書の物語はまだ始まったばかりですが、神はすでにイエスの降誕の準備をしていました。旧約聖書でいけにえが登場するのは、なぜ神の子が世に来なければならないかを私たちが理解できるようにするためでした。イエスが十字架で死ぬことによって、イエスは、旧約聖書のいけにえによって予測されていたことを、成し遂げてくださいました。キリストは私たちの罪を贖ってくださいました。キリストは彼を信頼するすべての人のために神の臨在と祝福を取り戻してくださるのです。
開かれました。
自分の罪を十分に反省すれば、神と正しい関係を築けると思っているでしょうか?あるいは、教会に出席して祈りを捧げることで神に従順であれば、罪を償うことができると感じているでしょうか?これらは良いことですが、それだけでは十分ではありません。神に対して贖罪を成し遂げるには、イエスといういけにえの血を流すことが必要です。「この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です」(1 ヨハネ 2:2)。
脚注:
1.宿営に約200万人の人々がいたことを考えると、199万7千人がモーセの訴えに応え、彼と同じ立場に立ちました。このことは、招きを拒否した3,000人がいて、その日が彼らの人生の最後の日であったことからわかります(出エジプト 32:28)。
2.すべての仕事が終わったとき、その各部分が一つにまとめられ、幕屋は第二年の第一月の第一日に設置されました(出エジプト 40:17)。エジプトを出て彼らがシナイに到着したのは、第3の新月の日(出エジプト 19:1)だったため、2ヶ月が経過していました。また、モーセが民から離れていた6週間の期間が2回ありました。つまり、移動期間とモーセの不在期間を合わせると、約5か月になります。幕屋は第2年目の初めに設置されたので、残りの7か月間は幕屋を作る作業をしていたことになります。
出エジプト記32章1−16節
黄金の牛
32章1民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」2それでアロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい。」3民はみな、その耳にある金の耳輪を外して、アロンのところに持って来た。4彼はそれを彼らの手から受け取ると、のみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にした。彼らは言った。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」5アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼びかけて言った。「明日は主への祭りである。」6彼らは翌朝早く全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを供えた。そして民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた。
7主はモーセに言われた。「さあ、下りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。8彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道から外れてしまった。彼らは自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえを献げ、『イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ』と言っている。」9主はまた、モーセに言われた。「わたしはこの民を見た。これは実に、うなじを固くする民だ。10今は、わたしに任せよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がり、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とする。」
11しかしモーセは、自分の神、主に嘆願して言った。「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。12どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。13あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」14すると主は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。
15モーセは向きを変え、山から下りた。彼の手には二枚のさとしの板があった。板は両面に、すなわち表と裏に書かれていた。16その板は神の作であった。その筆跡は神の筆跡で、その板に刻まれていた。
これらの質問を使って、神の御言葉にさらに触れてみてください。他の人と話し合ったり、自分自身を探るための質問として使ってみてください。

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