イザヤ6章1−8節
2001年9月11日は、アメリカの歴史に永遠に刻まれた日です。雲ひとつない朝に、ハイジャックされた二機の航空機が、ニューヨークの世界貿易センターのツインタワーに飛び込みました。
悲劇から数時間も経たないうちに、メディアはクリスチャンのリーダーたちに尋ねました:「神はどこにおられるのか?これはアメリカに対する裁きですか?これは世界の終わりですか?」
神は、これらの問いに対する答えを私たちに与えておられません。そこで、全国の牧師たちは御言葉を探り、神の言葉をこの特別な出来事にどのように適用するのが最善かを見極めようと努力しました。預言者たちにとっては違いました。彼らは神助言のただ中に立ち、直接神の言葉を受けました。彼らは、神が何をしているのかを知っており、「主はこう言われる…」と言うことができたのです。
神を恐れ敬う心が薄れる民
最も有名な預言者の一人であるイザヤは、六十年以上にわたって神の言葉を語りました。彼の預言者としての働きは、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤという四人の王を跨いで行われました(イザ 1:1)。
ウジヤ王が亡くなった年に、イザヤは彼の人生と宣教の働きを形作る神の幻を与えられました。ウジヤは五十二年間エルサレムの王として君臨し、その間、国は著しい繁栄の期間を享受しました。この繁栄の期間により、民の間に自信が生まれ、その自信が増すにつれて、神を恐れ敬う心が薄れていきました。
犠牲を献げ、祝宴や祭りを守るため、多くの人が神殿を訪れました。しかし、宗教は彼らの生活にほとんど影響をもたらしませんでした。かつて神の栄光で満たされていた神殿は、伝統的な価値観の象徴でしかなくなりました。神はこのような宗教活動に満足されるはずもなく、不快に思われ、神の「庭を踏みつける」行為とみなしました(1:12)。イザヤの時代の民が抱える大きな問題は、人々が神の聖さを見失っていたことでした。
主の幻
神が幻を通してイザヤに語りかけたとき、イザヤはすでに何年も御言葉を宣べ伝えていました:「ウジヤ王が死んだ年に、私は…主を見た」(イザ 6:1)。
神はどのようなお方でしょうか?イザヤは次のように語っています:「[神は]高く上げられた御座に着いておられ… その裾は神殿に満ち[ていた]」(6:1)。イザヤは次のように言おうとしているようです:「神は私にご自身を明らかにされましたが、私は神の顔を見ることができませんでした。私が語ることができるのは、ただ神が高く上げられた方であるということだけです。私が見ることができたのは、衣の裾のほんの端だけでした。」
神の輝きは圧倒的です。モーセも、神の栄光の輝きを直接見ることはできず、神の足の下にあるものしか説明できませんでした:「御足の下には、サファイアの敷石のようなものがあり、透き通っていて大空そのもののようであった」(出エジ 24:10)。
それからイザヤは、御使いのような生き物が互いに呼びかけるのを聞きました:「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主」(イザ 6:3)。ある言葉を強調したいときは、下線を引くか、斜体にするか、太字の書体を使用することができます。あるいは、二度繰り返して言うことで、強調することもできます。イエスもこの方法を用いました:「まことに、まことに、あなたに言います」(ヨハネ 3:3)。
聖書の中で三重の強調が与えられている真理は一つしかありません。それは、神の聖性です。聖書は、神が「怒り、怒り、怒り」であるとか、神が「愛、愛、愛」であるとも語っていません。しかし、神が「聖なる、聖なる、聖なる」方であると記されています。神の聖性は、神ご自身の本質の基盤であり、もしそれを理解することができないなら、私たちは神を神として知っていないということになるのです。
御使いたちすら神を見ることができない
「聖さとは何ですか?」と尋ねるのは、「火とは何ですか?」と尋ねるようなものです。火を理解する最良の方法は、その効果を観察することであり、神の聖性を理解する最良の方法は、神が近くに来られたときに何が起こるかを観察することです。
天国に住む御使いたちは、神のすぐ側で快適に過ごしていると思われるかもしれませんが、神が近づいたとき、御使いたちでさえ顔を覆っているのを、イザヤは見ました。
なぜ御使いたちはそうするのでしょうか?御使は私たちのように罪を犯していません。彼らには恥ずべきことは何もありません。彼らの生涯は神に仕えることに費やされています。御使いたちは、造り主である神を前にして、創造物としての畏敬の思いからそうしたのです。たとえあなたが地上で完全な人生を生きて、神の臨在のもとに迎えられたとしても、創造主の栄光を前では、造られたものとしての畏敬、驚きの思いを持ってかしこまることでしょう。
縫い目からほころびる
神が近づいたとき、敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされました(イザ 6:4)。イザヤは言いました:「ああ、私は滅んでしまう」(6:5)。「滅んでしまう」の原語は縫い目からほころびることを意味しています。誰かが非常に有能だったり、または成功している場合、英語では「うまくまとまっている」と言うときがあります。イザヤはその反対を経験しました。神を見たとき、彼は崩壊しそうになったのです。
イザヤは当時最も尊敬された人の一人でした。彼は、素晴らしい宣教活動で知られており、讃えられていました。現代に生きていたなら、何千人もが彼の話を聞くために修養会に押し寄せ、ツイッターで何百万人ものフォロワーを集めたことでしょう。しかし、神の御前では、「ああ、私は滅んでしまう」と言うことしかできませんでした。神の聖さは、どんな善人であっても、自分は救いようのないものだと思わせてしまうのです。
預言者として、イザヤの唇は宣教の道具でした。演説は彼の霊的な賜物でしたが、神の御前では、その最大の賜物でさえ清められねばならないことに気付きました:「この私は唇の汚れた者」(イザ 6:5)。神の聖さを理解したとき、清められる必要があるのは、あなたの最悪な部分だけでなく、あなたの最善な部分も清めが必要なことが分かります。
神の慈悲に触れて
神の栄光を一瞬見た後、神殿は煙で満ち、イザヤは暗闇の中に突き落とされました。彼は神がそこに臨在しておられるのを感じていましたが、彼の視界から神は隠されました。そして神殿が土台から揺れ始めました。それは恐ろしかったに違いありません!
それから、イザヤは煙を覗き込むと、御使いの一人が祭壇から取った燃えている炭を手に持って彼に向かって飛んでくるのを見ました。御使いはイザヤの口に熱い炭を押し付けながら言いました:「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された」(イザ 6:7)。
祭壇はいけにえが献げられた場所でした。ですから、炭が祭壇からイザヤのもとに運ばれたとき、神が用意してくださった罪の贖いが、イザヤに個人的に適用されたのです。また、イザヤ自身が必要を最も深く認識していた場所に適用されたことに注目してください。イザヤは、「私は唇の汚れた者」と告白しました。その直後に御使いは言ったのです、「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれた。」
このように深く個人的な形で神の恵みを経験したイザヤは、主に仕える心が新たにされました。神が「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか」(6:8)と聞かれたとき、イザヤは答えました、「ここに私がおります。私を遣わしてください」(6:8)。それで神はイザヤを遣わされたのです。
「イザヤよ、あなたはわたしが誰であるかを理解し、罪が何であるかを知っており、わたしの恵みを経験したので、行きなさい」と、神が言っているように思えます。神に仕えるという特権に再び満たされたイザヤは、神を知らせるために出かけました。
イザヤが神と会ったこの時の出来事は、イエス・キリストの到来を指し示しています。ヨハネは次のように語ります:「イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである」(ヨハネ 12:41)。御父と御子は同じ栄光を共有しています(ヨハネ 17:5)。十字架という祭壇に置かれ、私たちの罪に対する犠牲の献げものとなってくださった聖なるお方の栄光をイザヤは見たのです。
イザヤが宮の中で闇に囲まれたように、イエスは十字架上で闇の中に放り込まれました(マタイ 27:45)。神の臨在が下りてきたことによって神殿の土台が揺れたように、イエスが命を差し出したときに地が揺れ、岩が裂けました(マタイ 27:51)。キリストがこの世の罪を負い、父が御子に裁きをくだしたとき、地球は震えました。
イエスが死なれたのは、神の聖さによって破綻してしまっている私たちのような人間が、神の恵みに触れて、癒されるためでした。イエス・キリストにおいて、神は私たちに近づいてくださり、「あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された」と宣言してくださるのです。
開かれました
神は聖なる、聖なる、聖なるお方です。神の聖さは神の品性の土台です。イザヤの時代、何千人もの人々が神殿に押し寄せましたが、彼らが礼拝の対象として主張していた神を経験することはありませんでした。このような礼拝はやがて退屈になります。しかし、もし神を退屈だと思うなら、それは聖書の神に出会っていないからです。
罪とは聖なる神に対する侮辱行為であり、贖罪が必要とされます。贖罪がなければ、罪人は神の御前で滅ぼされます。福音の良い知らせとは、神の子イエスが私たちのすべての罪をあがなう犠牲となられ、聖なる神の裁きを満たしてくださったということです。
神の素晴らしき聖さを知ったとき、イザヤのように、あなたも神がイエス・キリストにおいてあなたのためにしてくださった御業に感謝するようになるでしょう。そして、人生における最大の特権は、この素晴らしく、栄光に満ちた、聖なる神に仕えることだと感じるようになります。
イザヤ6章1−8節
イザヤの主の幻
6章1ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、2セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、3互いにこう呼び交わしていた。
「聖なる、聖なる、聖なる、
万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」
4その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。5私は言った。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」
6すると、私のもとにセラフィムのひとりが飛んで来た。その手には、祭壇の上から火ばさみで取った、燃えさかる炭があった。7彼は、私の口にそれを触れさせて言った。「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。」
イザヤ主からの任命
8私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」
これらの質問を使って、神の御言葉にさらに触れてみてください。他の人と話し合ったり、自分自身を探るための質問として使ってみてください。

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