ヨハネの福音書5章19−29節
息子のアンドリューが生まれた1986年に私は父親になりました。息子が生まれる前は、私は自分のことを父だと言うことができませんでした。息子か娘が生まれて初めて、男性は父親になり、女性は母親になります。しかし、イエスがこの世に生まれたときに、神に子ができたのではありません。すでに「父のふところにおられ[た]」ひとり子を、神は遣わされたのです(ヨハネ 1:18)。
御子は御父と等しいということを、聖書ははっきりと告げています(5:18)。御子が人間の肉を得て人となられるよりも前に、御子は御父の栄光(17:5)、御父のいのち(5:26)、御父の働き(1:3)、そして御父の愛(17:24)を共有していました。キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず(ピリピ 2:6)、ご自分を御父に委ねて、しもべの姿をとられました。
ある時、「父はわたしよりも偉大な方」(ヨハネ 14:28)だと、イエスが言われましたが、これは、「アメリカの大統領は私より偉大だ」と、私が言うようなものです。私は、大統領と同じ人間です。しかし、明らかに、大統領の方が私より高い地位にいます。
ですから、イエスが「父はわたしよりも偉大な方」だと言ったのは、御父の方がイエスよりも神性が高いということではなく、御父の方がより高い位置にいるということなのです。御父は天におられ、イエスは十字架に向かっているところでした。だから、イエスは弟子たちに言ったのです、「わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたがたは喜ぶはずです」(14:28)。御父のもとに行くということは、御父の高貴な地位を共有するために戻るということです。
この父にして、この子あり
聖書は、子という言葉を二通りに使っています。扶養家族、もしくは反映される性質のことを指しています。(注1)
昔では、息子は父親の跡を継ぐものでした。父が大工なら、子も大工になりました。あなたの父が優秀な大工なら、そのすばらしい仕事は、子にも受け継がれていたでしょう。昔のことわざにあるとおり、「この父にして、この子あり」です。
新約聖書には、使徒たちが「バルナバ」とあだ名を付けた男性が登場します。バルナバというのは、「慰めの子」という意味です(使徒 4:36)。使徒たちがどうして彼にこのようなあだ名を付けたかは、容易に想像できます。バルナバが大変な慰め手であったからです。彼は励ましを体現した人物、慰めが肉体をまとったような人でした。
イエスは山上の説教で、子という言葉を同じように使っています。「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」(マタイ 5:9)。神は偉大な平和のつくり手であり、私たちが平和を結ぶとき、私たちは神の性質を反映しているのです。
ですから、聖書がイエスのことを「神の御子」と語る場合の御子という言葉は、父の「扶養家族」を意味するのではなく、神の本質を完全に現わしている(ヘブル 1:3)という意味です。神の御子とは、神そのものが人間の肉をとられた方なのです。
御父の御業を行う
イエスが神の御子であることから生ずる栄光の全貌は、ヨハネ5章で私たちに明らかにされています。そこでイエスは次のように語られています:「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません」(ヨハネ 5:19)。
イエスが目にする御父の御業だけを、イエスは行っています。キリストは、御父がなさることの範囲を超えることは決してすることはないと語っておられるのです。私がすることはすべて、神の御業を反映していると、言うことができたらどんなにすばらしいでしょうか。しかし、もちろん、私はそんなことは言えません。けれども、それこそまさにイエスが言われていることです:「わたしの人生において、神の御業の範囲を外れていることは何もありません。」
それから、イエスはさらに驚くべき第二の発言をされます:「すべて父がなさることを、子も同様に行うのです」(5:19)。つまり、イエスはこう言われているのです:「わたしが行うことはすべて、父の御業を反映しています。そして、父の御業のすべてが、わたしが行うことを通して反映されています。」
私たちは、神の御業を反映することを行うこともあるでしょう。私たちが愛し、赦し、平和を結ぶとき、私たちは御父の性質を反映しています。しかし、神にしかできないこともあります。神だけがいのちを与えます。神だけが死者をよみがえらせます。神だけが裁きを行われます。これらは神に属することです。イエスはそれらを行うと私たちに語っておられるのです:「父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました」(5:21−22)。
御子ご自身のうちにいのちがある
あなたの命は、両親が結ばれることを通して神が与えて下さった贈り物です。両親がいなければ、あなたは存在していません。神だけが、ご自身のうちにいのちを持っておられます。他の誰かに依存せずに存在できるのは、神だけです。
しかし、イエスは言われます、「父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです」(5:26)。この言葉は、私たちが三位一体の奥義を驚きつつ見つめさせます。イエスが次のようには言わなかったことに注意して下さい:「父がご自分のうちにいのちを持っておられ、そして子も自分のうちにいのちを持っています。」これでは、それぞれの中にいのちを持つ神が二人いることになります。また、イエスは次のようにも言われませんでした:「父がご自分のうちにいのちを持っていて、父は子にいのちを与えて下さった。」これでは、御子は創造されたものであって、私やあなたと同じように、依存した存在となります。
イエスは「父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださった」と、言われました。御父と御子は、神の永遠の一つの命を共有しているのです。(注2)
これらのことをまとめると、主イエス・キリストの栄光が見えてきます。いつの日か、イエスは死人をよみがえらせ、すべての人に最後の審判を行います。そして、イエスのもとに来るすべての人にいのちを与えることができるのです。
神を知ること:推測?それとも啓示?
新約聖書は、イエスとは誰かということに非常に重点を置いています。イエスは、私たちと共にいてくださる神です。そして、この真理は極めて重要です。なぜなら、御子が神でないなら、私たちは御父を知ることができないからです。
ある時、ピリポがイエスに言いました:「私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」そして、イエスは答えられました、「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです」(ヨハネ 14:8−9)。
英国に、私の弟がいます。弟は、私に似ているところもありますが、全く違うところもあります。「私を見たなら、弟を見たのです」とは言えません。なぜなら、私たちは同じ両親を持っていますが、とても異なっているからです。私を知ることは、私の弟を知ることにはなりません。
御子が神でなければ、御父を知ることはできないでしょう。せいぜい、御父と一緒にいた人がやってきて、御父について話してくださったと言えるだけです。それでは、イエスは天の御使いや預言者と同じになります。しかし、イエスは言われました、「わたしを見た人は、父を見たのです」(14:9)。
十字架: 残虐行為か?愛の贈り物か?
私たちの罪の罰を御父は御子の上にくだされたと聖書は語っています。そして、それは愛を示す行為であったというのです(イザヤ 53:5-6;ローマ 5:8)。
しかし、もし御子が神でないなら、十字架は、愛の贈り物ではなく、残虐行為になってしまいます。神は被造物の中からある人を選んで、他のすべての人が受けるべきものをその人に注いだことになります。一体それのどこが正義なのでしょうか?
もし、御子が神でないなら、ローマ 5:8を次のように書き直す必要があります:「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の不正義を明らかにしておられます」。しかし、御子は神です。十字架で私たちの罪を負われ、私たちのためにご自身を犠牲にしてくださったのは、神でした。
世界の創造よりも前に、神は人間を購う計画を立てておられました。人が神の栄光を永遠に共有していくためです。この計画は大変な犠牲を伴いました。神がご自身を献げることを意味し、神ご自身の本質と栄光を示す究極の方法となりました。
神がご自身を献げることには、三位一体のすべての位格が関わっています。御父が御子を遣わし、御子が命を献げ、聖霊が信じるすべての人にご自身を与えてくださいます。
御父と御子の役割について考えてください。どちらのほうが簡単な役割だったでしょうか?御子を与える方でしょうか?それとも自分の命を献げる方でしょうか?この問いに答えは見つかりません。御父も御子も、一つであり、あなたと私のために自らを与え、犠牲になるという計り知れない代価を払ってくださったのです。
救い:確信していますか?それとも最善を期待しているだけですか?
御子が神でなければ、救いを確信することはできないでしょう。
カードをアップグレードしたいと思い、先日、クレジットカード会社に電話しました。「電話でできますか?」と尋ねると、担当者はとても親切で、「できる」と言ってくれました。
数日後、私は手紙を受け取りました。
コーリン・スミス様
先日、クレジットカードについてお問い合わせいただき、誠にありがとうございました。申し訳ありませんが、ご要望のアカウント変更を実行することができません。アカウントの変更をご希望の場合、上記のカスタマーサービスの電話番号にお電話ください。
明らかに、電話の担当者の手続きが却下されてしまったのです!彼女は、私のアカウントを電話で変更できると、心底思っていました。しかし、彼女にはその権限がなかったのです。
キリストの場合も同様だったらどうでしょうか?もし、イエスが神でないなら、もっと上の権威によって、却下されてしまう可能性がいつでもあったことになります。そして私たちは、天国の門まで来たものの、入る資格がないことに気付いて終わるということが起こり得るのです。
しかし、御父はすべての裁きを御子に委ねられました(ヨハネ5:22)。そして、御子はまさしく神です。キリストは宇宙の最高裁の裁判長を勤めておられます。より高い権威はありません。ですから、御子が「あなたは赦された」と宣言すれば、あなたは本当に赦されているのです。
開かれました
イエスは私たちと共にいてくださる神です。ですから、私たちはイエスを通して御父を本当に知ることができます。十字架でのイエスの死によって、神がどれほど深く私たちを愛してくださっているかが示されました。神はキリストにあって、この世をご自分と和解させました(2 コリント 5:19)。主イエス・キリストが神であることが、私たちの救いの保証です。 イエスは言われました、「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています」(ヨハネ 5:24)。
注:
1. ドン・カーソン教授の著作、新約聖書における「御子の言葉」を参考にした。とくに、『神の愛の難解な教理』 A. Carson, The Difficult Doctrine of the Love of God (Wheaton, IL: Crossway, 2000), 31ff.を参照。
2. ここの指摘においても、ドン・カーソンを参考にした。特にThe Difficult Doctrine of the Love of God, 37〜
ヨハネの福音書5章19−29節
子の権威
5章19イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。20それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。21父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。22また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。23それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。24まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。
25まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。26それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。27また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。28このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。29そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。
これらの質問を使って、神の御言葉にさらに触れてみてください。他の人と話し合ったり、自分自身を探るための質問として使ってみてください。
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